お知らせ
「本読むバカが、私は好きよ」にドキュン。
僕は、糸井重里というコピーライターに憧れて、コピーライターになった。
そう思い始めたのは、20代の前半だったと思う。
皆さんは、コピーライターという職業に、どんなイメージを持っているだろう。
文章を書くのがうまい人。
国語の成績がよかった人。
子どもの頃から、本ばかり読んでいた人。
だとしたら、僕は入口を間違えている。
学生時代、文章を書くのは苦手だった。
国語の成績も、よかったわけではない。むしろ、苦手な教科だった。
20代の前半か半ばくらいまでは、本もほとんど読んでいない。
なぜか。
落ち着きがなかったのだ。たぶん。
思いついたら、すぐに身体が動く。
本を読んでいても、すぐに違う世界へ行ってしまう。
妄想するのである。
文章の途中にある一文がきっかけで、頭の中では別の物語が始まってしまう。
目は教科書に向いているが、本人はもう、そこにいない。
国語のテストで問われているのは、作者の気持ちだ。
ところが僕は、その頃すでに作者の知らない場所にいる。
それでは点が取れない。
頭の中は騒がしいのに、肝心なことは入ってこない。
かと思えば、好きなことや興味のあることには、とことん集中する。
そんな調子だから、成績にも波があった。
実力テストでは学校で上位に入ったかと思えば、期末テストでは最下位争い。
同じ人間が受けているとは思えない。受けている僕にも、よくわからない。
そんな学生時代を過ごした僕が、コピーライターという職業に惹かれた。
キャッチコピー。
ひと言で、相手のハートをつかむ。
なんとかっこいい仕事だろう。
最初は、そんな衝撃だった。
僕は小学校から高校まで剣道をやっていたので、
どこか、それに近い感覚があった。
一瞬で勝負が決まる。
ひと言で、一本を取る。
その感じに、心が震えた。
コピーライターは、日本語で「文案家」という。
文章を書く人、というだけではない。
言葉で、案(アイデア)を表現する人なのだ。
知識もない。経験もない。文章を書くのも苦手。
国語の成績がいい人には、かなわない。
でも、アイデアならどうだろう。
アイデアには、テストのような決まった正解がない。
それなら、僕にも勝負できるかもしれない。
国語の授業中には困りものだった妄想も、少しは役に立つかもしれない。
そんな気持ちから始まった。
そんな僕が、20代の前半頃、糸井さんのコピーに出会った。
「本読むバカが、私は好きよ」
衝撃だった。
まさに、ハートをつかまれた。
「バカ」には、悪い意味もあるけれど、いい意味もある。
釣りバカ。キャンプバカ。
何かが好きで、夢中になっている人を、親しみを込めてバカと呼ぶ。
その頃の僕は、思った。
今の俺には、バカになれるものが何もない。
これでは、ただのバカではないか。
せめて、本を読むバカになろう。
それから、図書館に通い、本を読むようになった。
たったひと言で、人の行動が変わる。
ときには、人生まで変わってしまう。
僕にとっては、その言葉自体が、コピーライターという仕事のすごさを教えてくれた。
こんな言葉を考える人になりたい。
そんな糸井さんに、憧れた。
ちなみに、あまり公表していませんが、妻のあきさんは
すごく本を読む人です(小説中心に)
うちの本棚にある小説系の本の9割は、あきさんが買った本というくらい。
コピーライターとして駆け出しの頃、キャッチコピーを考えるときは、
「何を、どう言うか」を考えろと教わった。
そこで大切になるのが、「切り口」だ。
同じものでも、どこから見るか。どこを取り出して、どう伝えるか。
その切り口を、何度も、いくつも考える。
漫才やコントのネタづくりに、近いところがあるかもしれない。
初めて発見する切り口もあれば、パターンやシリーズにできる切り口もある。
切り口が変われば、同じものの見え方が変わる。
見え方が変われば、受け取る人の意識も変わる。
「発想力」や「想像力」と言うと、何か特別な才能が必要な気がする。
でも、最初から大げさに考えなくていい。
今あるものを、少し違う角度から見てみる。
いつもの言い方を、少し変えてみる。
当たり前だと思っていることに、「本当にそうか?」と疑問を持つ。
みんなが正面玄関から入っているなら、ちょっと横に回ってみる。
すると、正面からは見えなかったものが見えてくる。
「本読むバカ」は、まさにそういう言葉だった。
本を読む人は、賢い。
バカは、賢くない。
普通なら反対側にあるはずの言葉を組み合わせることで、強い印象が生まれる。
ただ「賢い人」と言われるより、「本読むバカ」と言われるほうが、僕には魅力的に感じられた。
賢いだけでは収まらない、その人の夢中な姿まで見えてくる。
「愛すべきバカ野郎」なんかも、そうだと思う。
バカ野郎なのに、愛されている。
いったい何をした人なのか、少し会ってみたくなる。
言い方が少し変わるだけで、受け取る人の印象が変わり、心が動く。
だから、日常の中でも、見方や言い方を意識してみる。
そんなことを、教わったり、教えたりしながら、僕はこの仕事を続けてきた。
ここまで書いていて、思い出したことがある。
「当たり前を疑う」という話になると、僕には、どうしても気になる言葉がある。
「いちご狩り」だ。
あれは、どう見ても「いちご摘み」ではないか。
「狩」という漢字は、けものへんである。
僕がそこから思い浮かべるのは、野生の動物と向き合い、生きるために獲物を追う姿だ。
緊張感がある。
覚悟もいる。
相手だって、逃げる。
ところが、いちごである。
逃げない。
襲ってこない。
なんなら、赤くなって、かわいく待っている。
それを、こちらは「どれが甘いかな」などと言いながら、ちぎって食べる。
しかも、練乳を持参している人までいる。
ずいぶん余裕のある狩りなことですな。
いちごさんよ。
「狩」の字も、まさかこんなにのどかな現場へ配属されるとは、
思っていなかったのではないか。
いちご摘み。
僕は、この呼び方を提唱したい。
……と言っても、署名を集めるほどの熱量はない。
おいしかったら、どっちでもいい。
いちごには、罪はない。