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いい加減の料理

日本語というのは、繊細だ。

言葉の受け取り方というのは、言葉が持つ本当の意味を超えて

音の響きやイントネーションで変わる。

「いい加減」や「適当」という言葉はその代表かもしれない。

いい加減↑と、語尾が上がる言い方だと、「ちょうど良い」とか、

その時に応じた適度な印象を受ける。

例えば、「いい加減の温度。いい加減の味付け。」などがそういうことだ。

いい加減↓と、語尾が下がる言い方だと、「テキトー」とか「ふざけた」という印象を受ける。

例えば、いい加減な態度。いい加減な仕事。などがそういうことだ。

テキトーも同じだ。

適当は、「適度なこと。ちょうど良いこと」という意味なのに、

テキトーという音の響きは、中途半端でその場凌ぎでやってる感じになる。

「適度な仕事の仕方」と「適当な仕事の仕方」とでは、

本来は同じ意味のはずなのに、受け取る印象が変わる。

「適当」という言葉は、ずっと泣いてるかもしれない。

本当はこんなはずじゃないのに・・・と。

適当という言葉は、本来は相手を信頼しているから使っていた言葉だったと思う。

相手がちゃんとやることを知っているから、

「君の経験値の判断で、適当なところでお願い」って言える。

それが、いつしかちゃんとできる人が少なくなって適度な調整ができなくなって、

ミスが増えたり、失敗があったりして、適当が「手を抜く」

というイメージになったのだと思う。

「適当」や「いい加減」は、日常の言葉では違うニュアンスで伝わるようになってしまったが、

適度にちょうどよく暮らすのは、意外と難しいものだ。

生活バランスをちょうどよく維持するというのは、

ちゃんとやってないと手に入らないし、頑張ってもうまくいかないこともあるからだ。

先日観た情熱大陸の映画で、

「家庭料理というのは、いい加減でいい。」

そう、料理研究家の土井善晴先生が言っていた。

僕はここには、2つの意味があると感じている。

「①自分に合ったちょうどいいバランス」と

「②もっと手を抜いて良い」という2つの意味だ。

料理がプレッシャーになっては意味がない。

おいしく作ろうとして複雑になると料理は楽しくない。

おかずは2品以上ないといけないとか、自分を縛る必要はない。

美味しいは、後からついてくる。

適当に食べたいものを簡単に作ればいい。

そう土井善治先生は言う。

一汁一菜は、時短とは違う。

「効率的に早く作る」ということでなく、「簡単に落ち着いて作ること」が大切だと。

作るのは味噌汁とご飯だけ。これさえあれば、あとは気が向いたら作ればいいし、

スーパーで買ってきた惣菜でもいい。

時間を短縮する作業でなく、気楽に作ること。

「料理は本来、人を幸せにするものであるから」だと先生は提言する。

味噌汁もどんな具材を入れてもいい。

ベーコンやトマトなど。味噌汁の具材はこうじゃないといけないという

イメージは無くした方がいい。

冷蔵庫に余った具材があれば入れてみてください。

「味噌が食材をおいしくするから。」そう言って、土井先生はいろんな食材を

鍋の上で切ってどんどんぶち込んで作っていた。

「美味しく作る。上手に作る。」ということに縛られるな。

綺麗に切らなくてもいい。

自由に気軽に作ればいい。

と、「一汁一菜」を提唱する土井善晴先生は笑いながら語っていた。

〜いい加減〜

それは、自分の中で「心地よい」とか「楽しい」と思えるバランスと、思えばいい。

そう思ったこの頃。